徒然な日々・零式

クラシックの演奏会を中心にあれこれと書いていきます。

ベンジャミン:オペラ『リトゥン・オン・スキン』[日本初演] ③ (8/28・8/29)

③は歌い手について・・・と言っても評価とかそういうことではない。

(そもそもそんな偉そうなことをかけるほどの耳は持っていない。)

演奏会前に予習をするかと言えば、まぁ、する方だろう。そして大野さんの場合、何かしらのレクチャーがネットに上がることが多いので、それは100%見る(・・・終演後にお会いできたときに、それを申し上げると何となく喜んで下さるし・・・って邪な思惑もあるのだが)。それでいつもの通りに予習をして、世界初演時の公演youtubeでガッツリと見てしまった。

その公演でのアニエスはバーバラ・ハンニガン。ビロードのようなあの声質はいつ聴いても素晴らしかったけれど、アニエスがその本質に目覚めるというよりも、隠していたものを表しているように思える(と、改めて今聴きながら感じている)。かたや今宵のアニエスは、天使が最初に語る「好奇心がある」その自分に、知らず知らずに気づいていき、変化していく、それを表現するような声で私はかなり感情移入していくことができた。

(あくまでも私の感覚ですので、全く違うやも知れませんが。)

他の歌い手、みなとても素晴らしく(ヌッツォ氏の代役として公演一週間前に譜面を受け取った村上氏はすごいっ!)、言うなれば、一人何役もこなすようなストーリーの中で、ロールを演じわけていた。

そしてディクション!サントリーホールの響きは柔らかいので、ディクションに無頓着だと言葉が不明瞭になる。もちろん聴衆の席と舞台との距離も関係があるから、初日はスクリーン前の天使たちが少しふわふわと聞こえ、でもそれはもしかしてロール故にか、いや、それでは12世紀になったときにおかしいだろう・・・はたして二日目は、をを、これはもうっ!

テクストとそこに音を乗せた作曲者の意志もあるのだろうが、言葉がこれほど的確に音符に乗るって、聴いていて心地よくないですか?だからこそ、歌い手がそのロールを演じわけているとわかるのだから。

しかし、今、ふと思った。表音文字の世界ではそれが当たり前のことで、我ら日本人は表意文字の世界であるからして、合唱をしているとディクションについて厳しく言われるし、音節無視の言葉を音符に乗せられてイライラすることもあるのではないか。

そもそも「歌」とはどのようなきっかけでこの世に生まれてきたのだろう。

時間のあるときに調べてみよう。