東フィル 第126回東京オペラシティ定期シリーズ(6/20)
指揮:チョン・ミン
ピアノ:髙木竜馬
当初は尾高忠明氏が振るはずだったこの定期。尾高氏がしばらく休養とのことで指揮者変更。尾高氏ゆえにチケットを買ったお連れが、私と会えるからとはるばる遠征してきて、開演前には積もる話で大いに盛り上がったとこまではよかったが。
「ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番」。
「ピアノの森」は視ていないのだが、今宵のソリストはこのアニメの雨宮修平のピアニストだそうな。それ故なのか、それとも東フィルはいつもそうなのか、とりあえずほぼ満席でありました。しかし私には初めてのピアニストでありまして、つまりは何の予備知識もなし。だから新鮮な気持ちで聴けるはずだった・・・幾度となく聴いているラフ2であろうとも。
「叩く」という表現は正しいのかわからないけれど、私的にはそれほど悪い感覚としては使わない。メリハリのある鮮やかな演奏が好きなんである。だから最初の鐘の音ではかなり引き込まれたけれど、そのまま突き進んでしまった感ありまして。
麻子の演奏について上村さんが言った言葉を思い出しましたね。(のだめよりもあの作品の方がリアリティあるよな・・・ネーミングが全く違うから比べるのはおかしいけどさ。)
とは申せ、ただ一度だけの演奏を聴いて決めつけるのはあまりにも失礼であろう。そのうちに聴く機会は必ずあると思うので、その日を楽しみに待ちますかね。
「チャイコフスキー/交響曲第5番」。
指揮者の変更にはそりゃがっかりしたが、もしお連れがキャンセルすると言っても、私は聴きに来ただろう。チャイ5だから。とにかく好きで好きでたまらない。今年はすでに2回聴いていて、今後もあと3回ある・・・なんてことはどうでもよろしい。
指揮者がいる演奏において、その音楽は指揮者の音楽の具象化であると思っている。その是非はわからないし、時にオケが抗うこともあるし、しょーがねーなと付き合って感じの演奏もある。
それも悪くはないんだわ。せめぎ合いみたいなものも、案外面白かったりするのでありまして。
では今宵の場合はどうか。良くも悪くも、指揮者の意とすることをオケはしっかりと理解し、演奏していたように見えて・・・すんません、私には今ひとつだっただけです。
しかし私とてそれほど狭量でなく、「そうか、こういう風な音楽を目指しておるのだな」と理解できれば、それはそれでいのだが。
意図も具象化も明確ではあったけれど、何かが足りない。
・・・以上でこの件はは終了して、最後に別のことを書く。
音楽が指揮者の具象化であるという私の思いを、はっきりと否定する指揮者がいる。「自分は作曲家と演奏家をつなぐパイプ役であり、自分の音楽の中に『私が、私が』が入り込むことはない」と。
その指揮者が振ると、私は苦手なマーラーであっても、感動して泣いてしまったりする。つまりはマーラーの思いを私に届けて下さるわけだけれど、私にはそれがつまりあの御方の音楽に他ならない。
その曲の素晴らしさと、演奏者の素晴らしさを最大限に引き出して、私に下さる、その人の名前は大野和士と言う。
(東京オペラシティ 3階R2列22番)